ウルトラセブン12話(遊星より愛をこめて)への想い by Tackmix   2002/07/07


★ご注意とお願い★
ウルトラセブンの12話は、現在では再放送はもちろんビデオ・DVDにも収録されておりません。
いわゆる「幻の〜」欠番と言われるやつです。この12話のストーリーや、欠番に至るまでの経緯は、これ以降の私の記述を理解していただくためには大変重要なことです。が、このことだけで1つのサイトが出来上がってしまいます。(^^;そして、現にそのようなサイトが存在しています。私が知り得た情報はそれらの要約になってしまいますので是非一度下記のサイトを一読いただけますようお願いいたします。

江古田駅前公民館
-712-

なお、12話のダビングなどのお問い合わせはご遠慮お願いいたします。
またこれから書き記す内容は、私Tackmix の個人的な感想であることを改めて記します。


ちょっと前までの私と12話

私が「12話は欠番である」というのを知ったのはいつのことだったでしょうか?たぶん、KING Records のBGM集が発売されたあたりの事だったと思います。ただ、その当時の私は、BGM以外に興味がなかったようで、ビデオで作品を見たりと言うことはあまりしていなかったかもしれません。本放送当時、私はウルトラセブンを見ていたはずですが、この作品に関しての記憶は全くありませんでした。というか、以前からウルトラシリーズで興味があったのは、メカニックと基地とBGMでしたから(^^;ストーリーを覚えていなかったのはそれが原因かもしれません。
パソコン通信を始めるようになって、ニフティ・サーブで12話のことを目にするようになります。欠番の経緯や、現在のいろいろな方の意見を見ることになります。しかし、これらの議論はいつも平行線を辿りました。結局は野球での外野応援席の「ヤジ飛ばし」に見えてしまっていたのです。私自身、特別に「見たい」と思ったわけでもなかったので、全く関係がないような気持ちですらあったのです。その後、インターネットにデビューした私は、このようなサイトを作ってしまい否応なく12話について質問されることになります。確かに、セブンのサイトのくせに全く12話について触れていなかったので変だったでしょうね。(笑)でも、私は、白黒つけられない議論をそのまま抱え込む自信がなかったというのが本音だったのです。ましてや、私は12話を見ていない・・・正確には、「覚えていない」なのですが・・・
しかし、あることから「12話を見よう!」という決心をさせられてしまうのです。


これがセブン?

ウルトラセブンは、史上最大の侵略で西の空に飛んでいったはずでした。しかし、なんと1994年に「太陽エネルギー作戦」で復活するのであります。これは、このあと大変な事になります。ご存じのとおり「最終章」と銘打たれた6部作がリリースされ平成版と言われるウルトラセブンは11作品も世に出ることになったのです。(注・その後最終章の後物語が作られて、現在リリース中・・・嘘だったのか?(笑))
ところが、私はこの「最終章」に大いに不満を持ったのです。何の不満かは別の機会に譲りますが、既に続編とは言えない物になってしまっていたのでした。それは、作品的な失敗と言うよりも、オリジナル軽視の作風などが主なのですが、ここで私は自分自身に対して1つの疑問を感じてしまいました。
「私が言っているのは、ただ単にオリジナルとの違いを指摘しているだけなのか?オリジナル第一主義にとらわれていないか?」という事だったのです。自分が指摘している「平成セブンの欠点」とは、もしかすると昭和セブン第一主義になってしまった私が、オリジナルかわいさに重箱の隅をつついているだけかもしれない・・・。しかし、これはもう検証のしようがなくなっているのです。セブンのLDを何度見返しても、既に見たことがあるセブンですから先入観なしで見ることはできないのです。どうやっても、新しいイメージの平成セブンとの比較は、神格化された昭和セブンとの対比でしかないのか?記憶で美化されている昭和セブン?
この疑問を解決する方法が1つだけ有ったのでした。それは、未だ見たことがない昭和セブン。正確には「記憶にないセブン」ですが・・・。そう。12話を見れば、昭和セブンが何だったのか、新鮮な全く新しい感想を持つことができるのでは?そして、手に入れた12話。(入手方法の問い合わせはご遠慮ください。全てはインターネット上に存在します)
私は、平成セブンの愚かさに確信を抱くことになったのです。(^^;;;;;;


再確認できた昭和セブン

その映像は、お世辞にも綺麗な物ではありませんでした。しかし、ブラウン管に展開された映像・音声はまさしく昭和セブンそのものだったのです。実は、あるシーンには12話だけの独特な表現があります。その違和感は確かにあったのですが、全体を見た場合にやはり昭和セブンの「匂い」がしたのです。
昭和セブンと平成セブンについての相違点をちょっとだけ書いておきます。
昭和のセブンは、ウルトラセブンが主役ではないと思うのです。モロボシ・ダンこそが主役です。これは、設定などから考えると明らかに矛盾しているように思います。(ウルトラセブンが薩摩次郎をコピーし、地球に存在するときの仮の名前がモロボシ・ダンであるから)しかし、物語の描写は明らかにウルトラセブンの「能力を持った」モロボシ・ダンの苦悩です。最終回も、隊長・アンヌを含め各隊員たちは、セブンに対して「ダン、がんばれ」と声をかけています。好き嫌いという問題ではなく、この視点の違いは(というか、制作者の認識の違い)は、はっきりと判ると思います。
12話においても、ラストシーンでダンの心の声が聞かれます。これは、当然「ウルトラセブン」としての判断・見解なのですが、どう見てもセブンの能力を持ってしまったダン自身の言葉として聞こえます。また、それが「セブンの声」としてきこえるのであれば、最終話の各隊員の叫びは、全くの勘違いとしか理解できなくなってしまいます。
しかし、平成セブンでのモロボシ・ダンはセブンが変身した姿としてのみ登場しています。地球人としてセブンの能力をどう使ったらいいかを苦悩するモロボシ・ダンとしては描かれていません。あくまでも、セブンの心情を代弁するダンとして描かれています。だから、カザモリが変身することも許されています。この違いは大変大きいです。
このように、12話を見ることによって、それまで「自分の思いこみで昭和セブンを神格化してしまって、新しい物を受け付けなくなっている」かもしれない、という自分自身に対する疑問を打ち消すことができたのです。そして、ウルトラセブンは全話通して見られるべきだと感じました。


平成セブンに対する恨み(^^;

もうしばらく平成セブンに対してのことを書かせてください。m(__)m
平成セブンの問題点は「制作者の意識」ということを書きました。実は、これは大変酷なことだとも思っています。続編と言われる物を作るのは大変難しいと思います。私たち受け側は作者の意図とは関係なく勝手な解釈が許されています。これは昭和セブンに対しても同じで、当時の作者(例えば、監督)がどこを狙っていたのかは、かなり曖昧な範囲で問題がないわけです。たまたま、狙っていた部分と違う解釈をされて「大絶賛」となったとしても後から「それを狙っていました。」と言えるわけです。(あ、昭和スタッフがそうだったという意味ではないです)それに対して、続編の制作者はこれらの受け側の「評価」というのをリサーチするところから始めないと、全く違ったスタートラインを持ってしまうのです。これは、制作側としてはかなりの難問で、ピンポイントのテーマと製作技法が要求されます。
ですから、細々とした違いを指摘するつもりはありません。ただ、それが先に言った「狙いの違い」を間違ってしまっている部分の「証拠」として提示したつもりです。
ですから、今まで全てのあちこちでの私の発言は「○○のように作りたかったんだろうな」という、出来を無視したところまで行っても尚「間違っている」という評価となってしまっています。
冬木氏の新録BGMも残念ながら私は「違う」という答えとなってしまいました。ウルトラ警備隊という組織が、変な派閥で行動が制限されている描写もおかしいと思いましたし、何よりも、セブンが主人公という部分に驚きました。
残念ながら、平成セブンの出来はこのようなものでした。
平成セブンは何を訴えたかったのだろう?


では、12話はどうなのか?

さて、ここからが私の12話の率直な感想です。
一見したところ、12話の表現に問題が有るようには感じませんでした。むしろ、冒頭のキリヤマ隊長のセリフによって「人類は核の恐ろしさを既に理解しており、少なくとも安全な運用が達成されている」という設定が見られ、その運用に失敗したスペル星人との対比になっていると思われます。12話問題で俗に言われる「スペル星人の行為によって核の恐ろしさを伝えたかった」というのは、ちょっと無理があると思われます。どちらかというと、「核の安全運用を達成できる人類への信頼、未来への信頼、過去を貴重な経験にできるという信頼」というテーマが正しいかと思います。そして、最後のシーンでは「宇宙人と聞けば敵、怪獣と言えば敵、という偏見ではなく、文明を持った生物が交流できる可能性」というテーマを提示しています。これは、当時の子供番組にありがちな「敵と味方」が判りやすいヒーロー番組に対しての挑戦的な言葉かもしれません。侵略や敵対は、それぞれの側に切実な理由が存在しているということをあらためて提示していたのではないでしょうか?
「じゃ、12話は全然問題なかったというわけ?」いいえ、そうは思いません。
スペル星人のあの造形は、確かに被爆された方にとって気持ちの良い物ではなかったと思います。そして、その造形は当然ながら発注者の「自分の星で被爆した星人」というところからストレートにできてしまった物だと思いますし、だからこそ雑誌に於いても「ひばく星人」となってしまったのだと思います。その1つ1つはたわいのない物だったのかもしれませんが、つなぎ合わせていくと「被爆した人間」を想像させるにさほど努力はいらない物だったとも言えるでしょう。これらは、大変微妙な部分で、気にならない人もいるだろうしその逆の人もいる、、、とすれば、全ての擬人化表現は難しいのか?とすらなってきます。が、不快に思った方達が「いないだろう」とは決して言えないのです。これは、絶対に忘れてはいけないです。


12話に関して目にしたいろいろな感想・・・の感想(笑)

12話に関しての議論は各方面で行われてきました。そのどれも、私は変な気分で眺めていたのです。
まず、ストーリーの重要性について。これは、前述の通りで、それ以上のものでは無いと思います。秀作であったかどうか、これは「否」です。しかし、このような「出来」の問題は、12話に関する一連の事件とどの様に関わるのでしょうか?簡単に言うと、優れた人が犯した罪は軽くなるのでしょうか?ということです。
次に、責任の所在について。これは、関わった人たちが全て納得の上で有れば、権利者ではない第3者がどうこう言う問題ではないと思います。例えて言えば、法外な値段で売りつけられた商品であっても、買った方がその値段に満足していたとすれば、それを第3者がなんて言えばいいのでしょうか?関わった人たちを片方の論理であれこれ言うのはあまり意味がないと感じています。ですから、これらの決定は「くさい物にふた」といった言い方をすべきではないと思います。
時代が変わったとか、そういうレベルで論じるのもよくわかりません。また、画像や音声に何らかの処理を加えて収録する、といった方法も、結局は「解禁が先にある」だけで、オリジナルを隠す行為には変わりがありません。確かに程度の問題はあるでしょうし、違法コピーのプレミア化に拍車をかけるかもしれません。しかし、それは主たる目的が全く違う意味になっていないでしょうか?物語(ストーリー)の重要性で必要だった描写、または不幸な出来事だったことなどは、主張する第一ではなかったのですか?「リリースされる」という行為だけを目的にすると、大切な部分の主張すらしない、と言うことになってしまいます。それでいいのでしょうか?
そうです。「○○が悪いから(もしくは正しいから)××しよう」という結論は出せない、と私は思うのです。


では、私はどうしようと提案したか?

前述の通り、私はこの問題に「犯人」はいない、と思っています。全てが概ね正しく、ほんのちょっとの間違ったことが連鎖して起きてしまった不幸な出来事・・・と受け取っています。
そこで、あるBBSで私はこんな事を提案しました。(内容をあらためて記述します)

−−−ここから

これらの一連の事件に於いて、現状を覆す(つまり公開)ためには、どちらかが折れるといった方法は難しいと考えます。とすると、双方にとって利益となる方法しか残っていないのではないでしょうか?
12話そのものが問題となった時代は現代とはかなりかけ離れています。例えば、当時は特撮番組という言葉は存在せず、ウルトラセブンも1つの「子供番組」「怪獣番組」という認識しかされていませんでした。当然、そのストーリーの中に重要なメッセージが込められていたとは気付くのは難しかったでしょう。また、現在では戦争から50年以上が経とうとしており、戦争に関しての実体験が身の回りから感じられることは少なくなってきてしまっています。これらの「時代考証」という作業をする上で12話に関しての問題を考えることは、当時の社会を理解するのに非常に適材ではないでしょうか?特撮という文化、戦争という実体験、そしてその時代がもたらした決断。これらを考察する資料としてのリリースは可能ではないでしょうか?あくまでも、12話の映像は「資料」として使うのです。そして、その収益は今なお被爆に苦しんでいる人々、またはその活動団体に寄贈できれば良いのではないでしょうか?

ここまで−−−

これは、批判もあびました。そうです。寄贈という手を使って、全く別物(別物という言い逃れ)としてリリースするのですから。私自身もこのやり方を「裏技」と言っていたのですから。。。(^^;
しかし、考えてみてください。私たちが解禁賛成派であるとすれば、当時の決定を覆すだけの何かを提供する必要があります。それは、犯人探しや、円谷の勇気でしょうか?約束をした当事者のどちらかだけが利益になることを、もう片方の当事者が許す必要があるでしょうか?それとも、「おまえは間違っているから、考えをあらためろ」と今更説得できますか?そして、彼らがそんなことに耳を傾ける必要があるでしょうか?


現実的に何ができる?

「相互利益」という方法が汚いやり方だとすれば、他には何があるだろうか?と考えました。・・・とは言っても、それが一番合理的だと思うんですよね。世の中、ほとんどが相互利益で成り立っている。もしかしたら、愛だって「愛する対象が居る」という事自体が、「守りたい」という1つの欲求かもしれないし。。。ちと、脱線しました。m(__)m
率直に言って、具体的な手法はその他には思い浮かびませんでした。ただし、ウルトラセブンという作品のファンである私は決して被爆者を怪獣と考えたりしないし、むしろ何らかのお手伝いはしたい、とは思いました。もちろん、これからの人類(私も含めて)は原子力の間違った使い方しないと信じています。そして、このように思う人たちが多ければ、一つの判決を下すことにもなると思うのです。俗に言う「子供番組が与える影響」というのは、特撮はどうなんだろう?と。悪影響だったのかどうか?アイスラッガーを見て育った我々は、首を切るのを平気と思っているのだろうか?怪獣をボコボコにするのは、対人間に対してもそうしてしまうのか?大人になった私たちの行動が「悪影響」だったのかどうかの「証拠」になるのだと思うのです。
だとしたら、ウルトラセブン12話「遊星より愛を込めて」を見た(あるいは見ていた、知っている)私たちは、それによってどういう行動ができるのか?これが12話に私たちがどう判決を下すのか、の決定的な証拠ではないでしょうか?
最初の方に戻って、よーく読んでください。制作者は「核の恐ろしさを訴えたかった」と語っています。私はそこまで描き切れていないと思いつつも、少なくとも「原子力を間違った使い方をすることは、過去に苦い経験をしている人類だからこそ、今後ありえないはずだ」という人類に対しての皮肉と信頼は描かれています。これを実現できないのでしょうか?
まずは、そこから始めないと、ただの外野でしかないのです。

しかし、このようなテーマは見つかったのですが、肝心の証明方法が見つかりませんでした。何をすればいいのだろう?みんなで揃ってボランティアなんてできるのだろうか?現実的には、難しいことです。少人数でやったところで偽善的だという批判が出ることは、先の「裏技リリース」で判っています。そして、仮に大人数になったとしても、たかがしれているのではないか?この方法は実現できそうもありませんでした。

その時、ふとしたはずみから、あるプロジェクトの記事を見つけました。


あるプロジェクト

それは当時、あるBBSで「騒ぎ」が起きていた頃、それらの問題を語っているBBS群を眺めているときに見つけました。「白血病治療の研究のために、あなたのPCの空いた時間を貸してください」というものでした。原理は簡単です。インターネット経由でデータの一部を受け取り、パソコンが暇なときに解析させ、完了したらインターネットで結果を送る。これを自動的に行う物でした。同様なものに、宇宙生命体発見のプロジェクトがありましたが、「白血病治療」という言葉に引き寄せられる物があったのです。世の中には、まだ効果的な治療法が見つかっていない病気がたくさんあります。私の知人も白血病を患い、若い命を落としました。人ごととは思えなかったのです。
早速、プログラムをダウンロードしてPCにインストールしました。すると、このプロジェクトは、チームとして登録できることを知りました。実は、前述のBBS群のチームはなんと「世界一」のメンバーと解析データを送っていました。

それが、随分前に紹介した UD Agent だったのです。

そうか・・・白血病治療とチームか・・・ここで、全てのことがつながってしまったのです。


セブンファンだったら、その証明をしよう!

我々セブンファンは何ができるのか?ファンの集いだけで良いのか?
私は、ウルトラセブンという作品によって傷ついた人がいることを残念に思います。そして、これからの我々の行動によって傷つく人たちが増えるのも本意ではありません。確かに、12話問題と「原爆病」−「白血病」と繋げるのは苦しい表現かもしれません。しかし今の現状で、何ができるんでしょうか?今までの選択肢は、ほとんどの場合被爆関係者側が折れなければならないような方法ではなかったでしょうか?そんなことを一方的に言ってること自体が、間違ってはいるのではないでしょうか?自分勝手な理屈で、他人の約束をどうこう言うこと自体、当事者にとっては「出しゃばった存在」としてしか映らないのではないでしょうか?

ウルトラセブンで育った、ウルトラセブンを愛した、私たちは、12話も大切な財産です。そして、その誤解は「誤解のままで」私たちに影響を与えてしまったのでしょうか?いいえ、断固として違うと言い切ります。だから、その証明をしたいのです。それが、Team Senven7seven の全てであり、そのメンバー数が増えなかったとすれば、セブンファン全体はそんなものだったという証明になってしまいます。

もちろん「そんな理由でボランティア気取りか」と言われるのも承知しています。でも、他に方法が見つからなかったし、何よりもセブンファンである私自身が何か困っている人に、自分のできる範囲で協力したい、と思ったのも事実です。それを1つにまとめてしまっただけのことです。だから、正直言って、こんなことで12話復権にどれだけの影響を与えるかどうかはわかりません。というよりも、インターネットを使った署名以上の物ではないかもしれません。

そして、実はもっと大事なことは、これを表明してしまったことによって、私自身はセブンファンの中でもかなり特殊な部類になってしまうと言うことです。というのは、勝手に理屈を付けてセブンファンに対して「踏み絵」を用意してしまったのも同然だからです。

手順はとっても簡単です。インストールして、チームのページにアクセスして、メンバー登録するだけですから・・・


最後に・・・

長々と書き連ねてしまいました。文章で上手く伝えられないことをもどかしく感じます。何度読み返しても、言いたいことの半分しか書けていないような気がします。ですから、このページは永遠に「つづく・・・」がつきますし、随時更新となります。

私のスタンスは、12話そのものが特殊と言うよりも、ウルトラセブンという49話全て揃って特別な物になると思っています。今、子供たちはどんな番組を見てどんな大人を見て育って居るんでしょうか?この鎖は絶対に切れない物です。私たち大人は、ともすれば何に付けても白黒をつけたがります。でも、セブンの世界でもあったように、怪獣や宇宙人は彼らなりに切実な想いを持って地球を侵略に来ました。間違って暴れ出した悪いヤツではないのです。そして、悲しいかな決着の時を迎えてしまうわけです。これを忘れて欲しくないんです。

そして、共存という言葉には美しい響きがありますが、お互いの利益のためと考えると利益をむさぼり合う者同士ともいえます。本当のところ、白黒はつけられないことが多いのです。だから、私のやり方も白黒つけるのではなく、白い部分だけ勝手に持っていってね、というスタンスです。私たちは、まだまだ大人になるには時間がかかりそうです。



つづく・・・・ 最終更新 2002/07/16




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